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劇団カタコンベ 第65回公演

「ねえ、思いはあやふやな場所を漂うだけで」 感想・考察

201703/04観劇

 

場所に宿る地縛霊のような思い出や声を、普段は意識することがない。

思い出の場所を車で通り過ぎる時に、

懐かしいヒットナンバーを聞く時に、

郷土に帰って料理を食べる時に鮮明に思い出す記憶は、

自分の思い出であって他人の声ではない。

他者でもない他人の思いを、

どこでもない場に漂う思いを

、声を聞きたいかと言われれば、

さほど興味がないというのが正直なところ。それは記録なのだから。

ただし、その声が確実に聞こえてくるその場に立ち会って見たいかと言われれば、「はい」と答えてしまうかもしれない。100%立ち会える心霊スポットに興味があるのと同様に。

或いはたとえば、

ノイズだらけのAMラジオから聞こえてくる脈絡のない声に嫌気がさして、

他の放送局にチューニングし直したところ再び同じ声が聞こえてきた時、

人はその声に耳を澄ますのかもしれない。

無意味であっても、そこには事件性を感じてしまうからだ。

舞台上に漂うその声は俳優の練り上げられた身体から聞こえてくるので、

確実に「ある」と言える。

俳優おのおのが描くイメージ(画像)には強烈な具体性があるけれど、

けれどその身体から立ち現われてくるものはどうしたって「他人の意識」だ。

自分と関わりのある面倒な他者ではなく、関わりの無い楽な他人。

とうぜん相手にとっても自分は他人だ。

生身の他人を感じる瞬間、つき放されたような気にもなる。

「なら、どうでもいいか」と、その場を立ち去りたいとさえ考えるかもしれない。

しかし、腰を上げることが出来ないのは

その場に他人の声・記録が、リフレインされることで、

自分と関わりのある声に聞こえてきてしまうからだ。

人は反復に過剰な意味づけを行ってしまうとか、

太鼓のリズムに惹きつけられるとかそういった現象も含めて。

また、関係の無い、それでいて確実に目の前にいる他人の声に

「何かがある」と興味を持つからこそ、

無責任に自分を重ねてみることが出来るからなのかもしれない。

馬鹿みたいな言い方だけど、これは風俗体験に似ている。

瞬間的に欲するけれど、あとくされが無いことを知っているからこそ、

気楽に身体を重ねられるように。

そこでの時間でお互いに構築される特別なものはない。

物語は構築されない。

その声が最後に「光」を語っても、それは特別なことではなく、こちらは他人のみた光と交差したに過ぎない。

そこでの言葉は光りも影も等価なのだから、意味の判断は一方的にこちらに任せられる。

物語は構築されなくても、

それでも他人との(地縛霊との)一瞬の邂逅は「あった」のだと記憶させられる。

場の「記録」が自分の「記憶」の一部にとりこまれる。

劇場を出た後に、どこか外界に一抹のズレを感じ困惑するのは、そんな理由からなのかもしれない。

最後に、舞台上に立つ俳優には「美」があることが絶対条件なのかもしれない。

声・立ち姿・呼吸・ここに残酷なくらいの精度で「美」が立ち現われていないと成立しない。

とっかかりがこれほど大切だと感じさせられる硬派な芝居でもある思う。

そういった意味でも、

今回の舞台はとても興味深く面白く見ることが出来た。

 

なんか偉そうに一方的に感想を述べました。

ちょっと偉そうに書かないとなにもかけないと思って、偉そうにしてみました。

失礼ご容赦

頭使うよなぁ。。。どうしたって頭使って見ないと。

 

女優さん可愛かったです。

 

率直にそうおもったけど

こんな感想だけだと、申し訳ないくらいいい舞台だと思ったので。。。

 

 

  • 2017.06.06 Tuesday
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